バス停の椅子はなぜ

あんな微妙に離れたとこに置いてあるのだろう?

いちばん先に来た人は、当然まだしばらくバスが来ないから椅子に座って待っている。でもそこは先頭ではなくて、バス停から微妙にちょっとだけ離れてる。

三人目くらいまでは、椅子に座っている人が先頭ではないだろうかと推測して(そう推測しているのだ)、なんとなくその椅子の次みたいなあたりに並ぶ、というかたまっていく。

この雑然とした人だまりを見つつきた四人目くらいからが要注意。人だまりの無秩序さからは座っている人が先頭かどうかは推測できない。気づけと言われても、バス停を目視してからのたった10mわずか5秒ではそれも無理。

かくして、いぶかしげな顔をした四人目は、そのまま本来の先頭位置に立ってしまう。一人目も、この機に立ってしまえばいいものを、椅子の楽チンさと自分こそが正当なる先頭の権利者(しかしその権利はたいてい行使されない)なのだという自負が彼を立たせない。

五人目が来て焦るのは、二人目。見ず知らずとはいえ一度はその存在を受け入れた一人目の顔を立てるか、あっさり見捨てて我が身かわいさに五人目の後に並ぶのか悶々とするしかない。

二人目の動向如何、いやそこの秩序に漠然と疑問や不安を抱いていた者たちすべてが蠢き始める。まさにバス停の椅子が産み出した魑魅魍魎。

もう少し近ければ、誰もが一人目の権威の前にひれ伏すであろうし、はたまたもう少し遠ければ、一人目もその権威を示さんばかりに腰を上げざるをえないはず。

だがしかしこの微妙な距離では、誰もがたがいに物言わずに牽制しあい、混沌の後に無秩序すらも打ち破られる。

まるで妄想のようでほとんど日常。
これぞ淡々なる日々の出来事。
むべなるかな。